「ナ〜ユ〜タ〜」
妙に甘ったるいケイの声。
この上もない満面の笑顔で、ケイはナユタを手招きで呼び寄せている。
端から見れば仲のよい二人のやり取りにも見えなくもない。
しかし、声をかけられた当のナユタには、どうしてもそんな風にとらえることはできなかった。
なぜなら、普段にならケイの兄、ガイに対して向けられる何とも可愛らしい仕草であるが、ナユタに向けられた場合、そこに内包された意味はまるで違うものとなるからだ。
正に太陽と月、クジラとミジンコ。
自分が何かケイの逆鱗に触れるようなことをやらかしただろうか?
ナユタは胸に手を当てて考えてみるも、浮かんでくるのは、むしろ自分がケイにやられた記憶だけ。
こういう時はとても厄介だ。
冤罪ならまだしも、気付かない内にその何かをやらかしていたのなら、ケイの怒りも一入だろう。
まるで、首筋に魔力の充填されたスタッフを突き付けられているようだ。
「ナ〜ユ〜タ〜。何やってんの?」
「って、うわっ!」
などと、ナユタが過去を省みている内に、恐怖は向こうから直々に足を運んで来た。
ナユタは思わず笑ってしまいそうな情けない声を漏らしつつ、泡を食ってケイから距離を取る。
ケイが未だに声の調子を変えない所が、ナユタの恐怖心を増長させる一つの要因と言えよう。
「と、とりあえずスマン! オレが何かやったのか!? 悪いが、記憶にはない。だが、どうせやるなら何に腹が立ったのか教えてくれ。あ、いや、やられたくはないんだが」
もはや弁解の言葉すらおぼつかない。
「ん〜? 何で謝るの? 別にあたしは怒って何かないわよ?」
「へ?」
では、ケイのその猫なで声に隠されたものは何なのか。
ナユタのその最大の懸念事項の答えは、案外すぐに明かされることとなった。
「あたしね、ナユタにお願いしたいことがあるの」
命令ではなくお願い。
しかも、いつもの様な有無を言わせぬ態度とはまるで違う、上目遣いで見つめるいじらしいまでの控え目な言動。
こうまでされてはさすがのナユタも無下に断ることもできない。
「いいぜ、何すりゃいい?」
一言で快諾し、可愛い所もあるじゃないかとナユタが少し頬と一緒に警戒を緩めた所で───
───ケイの温和な笑顔がいつもの不敵なそれとすり代わった。
そして、同時にどこから出したのかナユタの手に分厚い本の束が山の様に積み重ねられる。
バサバサと言う落下音がナユタの耳に届き、軽い眩暈を引き起こしたのは言うまでもない。
「あの〜、ケイさん。…これは?」
これからしなくてはならないこと。
ナユタは簡単に予測することができた。
しかし、一縷の望みを胸の中に留めつつ、一応尋ねてみる。
「宿題。簡単なんだけど量が多いの。だからやっといてね。あたしはお兄ちゃ…、いや、忙しいから」
当然の如く言い捨て、ひらひらと手を振るケイ。
それは、まるで死出の旅の出発を見送っているような印象すら与える。
「やってなかったら……分かってるわよね?」
そしてまた破顔一笑。
そうだ…。
やっぱり隠れていたのはこれだったんだ。
諦めと同時にナユタに浮かぶ認識も、今となっては何の意味も成さない。
去り行くケイが───どうせガイと遊ぶためだろうが───わざとらしく、あ〜忙しいと言う辺り、ナユタにとってはかつてないほどの憎悪を覚えた。
大きく一息。
とりあえず国語の教材から手をつける。
「え〜と、何々? あっけに取られてしまうという意味の四文字熟語?」
茫然自失。
「騙すのに対して防ぐ手段がないという意味の慣用句…」
騙すに手無し。
「………世の中の不義不正や自分の運命に対して悲しみ、憤ること」
悲憤慷慨。
「……なんでこんなのばっかりなんだよ…。ケイの奴…まさかわざと…」
上の階から響くケイの笑い声。
この日、ナユタはケイに対して復讐を誓った。
が、数秒後、更なる報復が恐ろしくて諦めた。
「出世が出来ない。身分がぱっとしない」
うだつが上がらない。
「…………はぁ」